君が代の意味

日本の国歌「君が代」は、天皇の治世を奉祝する歌です。テーマはその永続性。

平安時代の「古今和歌集 巻七 賀歌」の冒頭の和歌が元になっており、五・七・五・七・七の形式です。その歌詞は時代を経て様々な歌集でも歌われてきましたが、明治初期に「国歌」として制定する際、大山巌薩摩藩士、元帥陸軍大将)が直接引用したのは薩摩琵琶の「蓬莱山」という歌からです。

作曲は林廣守で、明治13年に「陛下奉祝ノ楽譜改正相成度之儀ニ付上申」が施行され現在の国歌としての「君が代」が定まり、同年11月3日の天長節明治天皇の誕生日)で初めて公に披露されています。

 

国歌「君が代」の歌詞

 

君が代
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
こけのむすまで

 

法律で定められている歌詞は、巌も苔もひらがなで展開されていますね。

歌詞の意味をわかりやすく現代語に訳すと、下記のとおりになります。

 

天皇の御代が、
いつまでも永く続きますように。
小石が集まって大きな岩となり、
苔が生えるほどまでに。

 

もう少し詳しく解説したいと思います。

 

君が代

この「君」は天皇を指します。つまり「天皇がお治めになるこの御代は…」という意味となります。

よく「君」は天皇のことではないという人がいますが、明治初期に「国歌」として制定された際も、平成11年に法律で正式な「国歌」に定められた際も、「君」は「天皇」であるとはっきり位置づけられています。国歌としての君が代の「君」は「天皇」に他ありません。

「君」が天皇でないと主張する人には、君が代古今和歌集のとても古い歌で〜祝いの席でもよく歌われていた〜とかなんとか言う人が多いですが、元の作者(読人知らず)が「君」をどういう気持ちで詠んだかなって誰にもわからないし、歌われる場面で「君」の対象が変わるのは当然です。それは「和歌」としての君が代であって、「国歌」としての君が代ではありません。元の歌の解釈について議論することに何の意味も無いのです。

ただ敢えてこの議論に参加するならば、平安時代においては「君」というのは、天皇や自分の遣えている君主など目上の者に使われる単語で、多くの場合は「天皇」の意味で使われていました。また古今和歌集醍醐天皇勅命によって編纂されたものであり、このような勅撰集の賀歌に出てくる「君」は天皇である場合がほとんどです。ちなみに、「君」が敬称や二人称として使われるようになったのは、かなり後世になってからのことです。いずれにせよ、引用元の歌の解釈はどうでもいいのです。

もっと酷いのは、君(きみ)がイザナギの「キ」とイザナミ「ミ」で男女を意味しているという珍説です。「キ」は男、「ミ」は女を意味するというのは理解できますが、君(きみ)という言葉とは全く関係ありません。そういう嘘を真に受けて、君が代天皇の歌ではなくイザナギイザナミから始まる男女の愛の歌だったと喜んでいる人たちは、保守を気取りながらも戦後の左翼思想から抜けきれていないことを自覚した方がいいと思います。「君」が「天皇」であることが受け入れられないのであれば、意味を捏造してまで国歌を好きになろうというトンチンカンなことをせず、正々堂々と国歌改正を訴えればいいじゃないですか。

こういう嘘が蔓延するあたり、天皇という存在をあまり理解できていないのだと思います。近代になって西洋の絶対王政における専制君主のイメージが重なってしまっているためで、実際は全く違う存在です。天皇神道の祭主であり“祈る”存在です。天皇陛下は国民一人一人の幸せを毎日祈っています。天皇陛下の発するお言葉をよく聞いてみてください。基本的に国民の心配しかしていません。私たちは普段天皇陛下のことはあまり考えないかもしれませんが、天皇陛下は常に私たちのことを一人残らず案じておられます。日本人であれば、たとえ自分に身寄りが無くなって誰も自分のことを心配してくれる人がいないという状況になったとしても、最後の最後まで心配してくれている人が必ずいます。それは天皇陛下です。

2600年以上続く歴代の天皇も同じです。古来から天皇は民のことを「おおみたから(大御宝)」と呼び、日本固有の大和言葉で「天皇が慈しむべき天下の大いなる宝である民」を意味します。その原点は初代神武天皇による建国の詔にあり、その一節に「苟(いやしく)も民(おおみたから)に利有らば、いかにぞ聖の造(天皇の仕事)に妨(たが)わん」(日本書紀)とあります。この「国民を幸福にすることこそ天皇の任務」という建国の精神は歴代の天皇にも脈々と受け継がれています。有名なところでは、第16代仁徳天皇は「天が君(天皇)を立てるのは、民のためである。ならば、君は民を根本とせねばならぬ。だから、民が一人でも餓えるのならば、君は自らを責めなくてはならない。」と仰せになっています。天皇が民を大御宝として慈しみ、我が子のように案じておられる。“一人残らず”です。

天皇の最重要の任務は祭祀であり、いつの時代も、日々、朝な夕な「国安かれ、民安かれ」と祈り続けています。そして、天皇は民に何も求めません。皇祖から続く天皇の在り方を守り、ただただ無私の心で国民の安寧を祈っているのです。そのことを如実に表すエピソードがあります。平成16年の秋の園遊会で、当時東京都教育委員を務めていた棋士米長邦雄から「日本中の学校で国旗を掲げ、国歌を斉唱させることが私の仕事でございます」と話された際、天皇陛下は「強制になるということでないことが望ましいですね」と言われました。そう、国民には求めていないのです。それより国民の心配しかしていません。

親の心子知らずとは言いますが、私たちは普段、天皇陛下のことをあまり考えません。「君が代」も歌うことなんかほとんどありません。だからこそ、人生でごくわずかしかない「君が代」斉唱の時くらいは、常に私たちのことを祈り続けている天皇陛下に思いを寄せ、天皇の御代(つまり日本)が永く繁栄することをお祈り申し上げることが国民としての最低限の志ではないでしょうか。

それこそが天皇と国民の絆であり、君民一体の日本ならではの形であります。天皇日本民族のよりどころであり、自然と心がひとつにまとまり束ねられる存在なのです。

この最初の5音(初句)については必然的に説明が長くなりましたが、以下続けます。

 

千代に八千代に

現代語訳で「千年も八千年も」というのをよく見かけますが、「千」や「八千」は実数を表している訳でなく、非常に数が多いという意味です。例えば、夏目漱石の詠んだ漢詩の一節に「白雲紅葉満千山」とありますが、これは「たくさんの山々に白雲と紅葉が満ちている」という意味となります。「八」も「八百万の神」というように、きわめて多い神々という意味で使われます。なので、「千代に八千代に」は「いつまでも、いつまでも」と訳すのが最も適していると思います。

そして「ちよにやちよに」の調べがとても美しいですよね。千や八の字面に捕われず、この部分は和歌としての美しいリズムを感じた方が良いかと思います。

 

さざれ石のいわおとなりてこけのむすまで

小石が集まって大きな岩となりそこに苔が生えるくらい、非常に長い年月を表す“比喩”となっています。石と岩と苔という自然の中に永続性を表現しようとする感性は、日本人ならではの自然観と美的感覚だと思います。とてつもなく長い時間経過、しかもゆったりとした穏やかな時の流れを感じることができ、「永く、永く・・・」と心に染み入るような表現です。悠久の時を感じると共に、山間の情景が浮かび、水の流れる音が聞こえてきそうです。この“絵”と“音”を感じられるあたりは、和歌として美しい結びになっていると思います。

また、この部分は天皇のもとで国民が団結するイメージも想起させてくれます。まさに日本国民統合の象徴である天皇。日本人としてこれほど心にグッとくる歌はありません。

 


天皇皇后両陛下 佐賀県行幸啓 沿道の人々の君が代を両陛下が ...

「きみ」がイザナギの「キ」とイザナミの「ミ」というのは嘘

 

君が代の「君(きみ)」は、イザナギの「キ」とイザナミ「ミ」で、男女を意味しているという嘘が蔓延しています。

イザナギの「キ」は男、イザナミ「ミ」は女を意味するというのは理解できます。「いざなう男」と「いざなう女」を意味するというのは定説で、そこは正しいと思います。

しかし、「きみ」という大和言葉とは全く関係ありません。

和語の「きみ」の語源説欄には「カミと通じる」とあり、「かみ」から転じた派生語です。「かみ」という和語の意味は、「かむ」→「かむる」「かがむ」の動詞に通じ、被せる、覆う、隠れる、低い姿勢になって身を隠すと言った意味から来ています。つまり、「かみ」とは隠れていて目に見えない存在である訳です。

「きみ」が男女を意味するという嘘はもうやめましょう。

日本の国歌、君が代の「君(きみ)」は天皇を指します。

よく、古今和歌集が云々・・・詠み人知らずだから云々・・・と言われていますが、最初に詠んだ人が「君」をどういう意味で詠んだかなんて誰にもわかりません。とは言え、この和歌が詠まれた平安時代においては「君」というのは、天皇や自分の使えている君主など目上の者に使われる単語で、多くの場合は「天皇」の意味で使われていたと言われています。いずれにせよ、古今和歌集に収められている君が代は「国歌」としての歌ではありません。昔、長寿を祝う席で歌われたり、江戸時代には結婚式で歌われていたと言いますが、その歌われる場面で「君」の対象が変わるのは当然です。「ハッピバ〜スデ〜トゥユ〜♪」だって同じです。この歌の原作者が誰を思って作ったかなんてどうでもいいのです。

日本の「国歌」としての君が代は、明治初期に制定する際にその詩を“引用”し、「君」を「天皇」とはっきり位置づけ、あのメロディをつけて成立しました。引用元の詩をあーだこーだ解釈することに何の意味もありません。

平成11年に法の下で君が代が正式に国歌として定められた際も、日本国政府の公式見解は「君」は「天皇」を指すと明言されています。

その上で、「君」が「天皇」を意味するから「君が代」が“嫌い”という人がいてもいいと思います。公務員でなければ、歌いたくない人は歌わなければいいと思います。意味を捏造して、嘘をついてまで「君が代」を好きになろうというほうがよっぽど不健全です。

余談ですが、私には小学校低学年の息子がいます。毎年正月におじいちゃんの家に親戚が集まるのですが、今年たまたま「君が代」の話になって、(息子にとっての)叔母が「世界がいつまでも平和でありますように、っていう歌なんだよ」と息子に言う訳です。いやいやいや、ちゃんと意味を知っている息子にとったら「?(キョトン)」です。私が正しく意味を言い直しても、叔母は食い下がって世界平和を押してきます(笑)。子供にそんな嘘を教えるくらいだったら、君が代天皇のことを歌ってるから好きじゃないと言えばいいのに。もし息子がそれを聞いたら「??(ナンデ?)」って思うのは必至ですが。

君が代」は、天皇陛下のご長寿を願う、万世一系の天皇の御治世、すなわち日本が永く続くことを願うシンプルな歌です。日本の国歌としてこれ程相応しい歌詞はありません。何故なら、天皇は日本の「国体」だからです。それは時代がどんなに変わろうとも、その時代による人の価値観がどんなに変わろうとも、日本が日本である根拠だからです。日本の建国は初代神武天皇の即位であり、それから2600年余、そしてこれからも天皇が続く限り日本はずっと日本なのです。

天皇陛下は、国民一人一人の幸せを毎日祈られています。普段日常において私たちは天皇陛下のことをあまり考えないかもしれませんが、君が代を斉唱するときくらいは、天皇陛下に感謝の意を込めて、いつまでもお元気でいてくださること、天皇の御代(つまり日本)が永く繁栄することをお祈り申し上げることが国民としての最低限の志ではないでしょうか。

君が代の本当の意味という嘘

ここ最近、君が代天皇崇拝の歌ではなく、本当の意味は男女の愛の歌であるというトンデモ解釈を目にします。

君(きみ)とは、イザナギの「キ」とイザナミ「ミ」を表す言葉で、男女を意味しているとのこと。つまり、君は天皇ではなく、誘い合う男女の物語で、日本は男女の愛が育んだ国なのだそうです。

こんなケツの穴が痒くなるような、強引なこじつけは誰にも相手にされないだろうと思っていましたが、つい先日、うちのカミさんが「君が代の君はイザナギのキとイザナミのミでキミなんだよ〜」と得意げに言ってきたもんだから、ちょっとヤバいなと思ったわけです。

ネットを覗いてみると、このトンデモ解釈が結構蔓延してて、酷いのは「岐美が代」なんて言い始めてるわけです。オイオイ、なんか無茶苦茶だな(笑)

でも意外と笑ってもいられなくて、「君が代って、イザナギイザナミから始まる男女の愛を歌い上げてた歌だなんて素敵じゃな〜い」って、耳障りのいい、大衆受けするような解釈が誤って後の世代に伝わって広がってしまう恐れもあります。

このイザナギイザナミの男女和合説に影響されたお母さんが、自分の子供にその意味を教えて、小学校の入学式で君が代を歌ってたのは我が子だけだったと誇らしげに綴っていたブログをどこかで見ましたが、何とも痛々しい。お父さんとお母さんの愛によってあなたが生まれたのよ的なことも書かれていて、もはや国歌でも何でもない、お宅の父ちゃん母ちゃんの愛の歌ですか?って話ですよ。

「きみ」という大和言葉の語源として、そんな根拠やソースはありません。

和語の「きみ」の語源説欄には「カミと通じる」とあり、「かみ」から派生した近似語であることがわかります。では、「かみ」とは元々どういう意味かというと「かむ」→「かむる」「かがむ」の動詞に通じ、被せる、覆う、隠れる、低い姿勢になって身を隠すと言った意味から来ています。つまり、「かみ」とは隠れていて目に見えない存在だと言うことです。

古来から日本では、人智の及ばない自然の見えない力・存在に対して祈りを捧げてきました。それが神道のはじまりです。

漢字の「君(くん)」は本来は神と人の間に立って両者を言葉で取りつなぐ者の意味で、後に日本に漢字が入ってきてから、大和言葉の「きみ」にこの漢字が充てられました。また「公」「王」「皇」の漢字が充てられることもあります。「おおきみ」は大君、大王とも書きます。

ちなみに、「君」が敬称や二人称として使われるようになったのは、かなり後世になってからのことです。

そもそも「きみ」がイザナギイザナミだと誰が言い出したのか辿ってみたところ、どうやら、ねずさんという小名木善行さんという方のようです。私のように疑問を持った人が、このことで既に小名木さんに意見を求めていたようです。その返答が興味深かったので、下記に引用します。

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小名木善行氏の「君が代」に對する意見】
      昨年(平成25年)十一月四日
 
君が代について、
「きみ」が男女をあらわすという解説は、
私が本邦初の火付け役だったであろうと思います。

ただし、先般、國語研究会でも
発表させていただきましたが、
君が代の「君」は、あくまで天皇を指します。

では「きみ」がなぜ天皇に通じるかといえば、

「き=いざなき」「み=いざなみ」であり、
このお二柱の神様が
天照大神様の親にあたり、
それが万世一系の
歴代天皇のお血筋にあたられるから、
という解説をしています。 
だからこそ千年以上もの時を越えて、
ずっと愛され続けた歌になったと
解説させていただきました。

日教組

君が代は戦争礼賛の歌である」

などというデタラメを否定するのに、
歌の深さを題材にして
普及拡散を目的にやさしく解説しています。

ひとりでも多くの人が
君が代の美しさ、
日本の素晴らしさに
目覚めることを祈っています。」

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これを読む限り、君が代の素晴らしさを多くの人に伝えるために、万人受けする解説にしたと言っているわけです。つまり作ったんですね。でも言い出しっぺの本人ですら、君が代の「君」は天皇を指すと言っています。

日本の国歌、君が代の「君」は「天皇」に他なりません。

天皇陛下のご長寿を願う、万世一系の天皇の御治世が永く続くことを願う歌です。

何故なら天皇は日本の「国体」だからです。それは時代がどんなに変わろうとも、その時代による人の価値観がどんなに変わろうとも、日本が日本である根拠だからです。日本の建国は初代神武天皇の即位であり、それから天皇が続く限り日本はずっと日本なのです。

君が代の「君」は本当は天皇のことではなかった!とか、君が代は男女和合の歌だった!とか言って喜んでいる人たちは、「君」が「天皇」だと何か後ろめたい気持ちでもあるのでしょうか。こういうトンデモ解釈が蔓延するあたり、保守を気取りながら、まだまだ戦後の洗脳から抜けきれていないんだなぁと感じます。

こういう君が代の解釈をする人たちって、日本共産党ですか?って思います。日本共産党と考え方同じです。”君が代の「君」は象徴天皇のこと”とは? - 日本共産党中央委員会

天皇陛下は、国民一人一人の幸せを毎日祈られています。天皇陛下の発するお言葉をよく聞くとわかります。基本、国民の心配しかしていません。例えば、天皇陛下御即位二十年の祭典では、皇居前広場EXILEの歌が披露されるなど盛大に行われましたが、この日は特に冷え込んだ為、天皇陛下は参加したみんなが寒くなかったかと最後まで心配されていました。

普段日常において私たちは天皇陛下のことをあまり考えないかもしれませんが、君が代を斉唱するときくらいは、天皇陛下に感謝の意を込めて、いつまでもお元気でいてくださること、天皇の御代(つまり日本)が永く続くことをお祈り申し上げることが国民としての最低限の志ではないでしょうか。

 

君が代の意味について改めてこちらに詳しく書きました。あわせてお読みください。

君が代の意味 - 君が代